お知らせ

第9回関東藤白鈴木会総会・懇親会のご案内

令和7年9月吉日

関東藤白鈴木会会長
鈴木 久元

拝啓初秋の候猛暑が続いて居りますが、会員の皆様にはご健勝にお過ごしの事と拝察申し上げます。

扨て、昨年11月16日~17日には11年振りに皆様のご協力のお陰で復元が出来た鈴木屋敷の海南市で、第8回鈴木サミットが開催され大勢の会員のご参加を頂き誠にありがとうございました。

その反省会を兼ねて来年度の行事予定の打ち合わせを行なう為、今回は中野の成願寺をお借りして行いますので、ご多忙の折とは存じますが万障お繰り合わせの上ご出席下さいます様お待ち申し上げて居ります。 敬具

総会ご案内

日時:令和7年10月25日(土) 13 : 30 ~ 16 : 00 (受付13 : 00 ~) 

会費: 5,000円( 1人飲食代。会場費含む) 

会場:「中野長者の寺曹洞宗成願寺」 東京都中野区本町2丁目 26番6号

☎03-3372-2711  

交通のご案内

JR新宿駅西口を出て、地下鉄丸ノ内線で荻窪又は方南町行きに乗り換えて2 つ目の「中野坂上駅」を下車して青梅街道交差点より環状6号線(山手通り)沿いを南250m(下り坂)を歩いて4~5分の右側です。

※会費の振込は最寄りの郵便局より10月15日迄に郵送いたしました振込用紙にてお振込み下さい。振込料は無料です。総会ご参加の方は参加費5000円+年会費2000円で7000円をお振込み下さい。今回欠席される方は年会費のみ2000円をお振込みお願い致します。

2025年7月5日 勉強会鈴木ゆかりの人 「鈴木梅太郎の業績」

於:世田谷区千歳烏山 スペースKURA

ビタミンB1の発見者鈴木梅太郎の業績を中心に、明治大正昭和の脚気患者数、死亡者数を陸海軍軍人や国民健康統計、さらに旧陸海軍の脚気対応の変遷比較等を話し合いました。そして現代に至るビタミンBの研究発展を学びました。

鈴木梅太郎は国産初の合成農薬・燻蒸殺虫剤コクゾール開発にも貢献。そのほかにも貴重なコメを極力使用しない合成清酒の製造や、その後の育児用調整粉乳の基礎となる粉ミルク「パトローゲン」の開発など、多岐にわたっています。

生涯にわたり幅広く食糧の栄養問題を化学的に追求し,日本人の栄養・体格改善を目指し,合成化学的なアプローチもした「農芸化学者」であったことを再確認しました。

鈴木梅太郎の教えを受け継いだ多くのの研究者が、その後、研究成果に基づき、現代では様々な機能性食品が創製され、国民の健康維持に活用され、世界をリードする食品研究が今日も日本で展開されていることがわかりました

スペースKURAの前で
当日の資料テキスト

藤白神社のホームページが「藤白王子跡ミュージアム」としてリニューアルされました。


藤白神社の敷地全体を「藤白王子跡ミュージアム」と呼ぶようになり、併せてホームページがリニューアルされました。
 https://fujishiro-jinja.net/

2025年4月4日幹事会

於 烏山区民センター会議室

烏山区民センター会議室にて、本年度行事予定の具体的活動を決めました。

※当日、テレビ朝日より取材を受けました。

2025年1月8日 成願寺(鈴木九郎開基)初観音会

幹事3名が参加いたしました。

屋外, テーブル, 男, 小さい が含まれている画像

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屋内, テーブル, 民衆, 男 が含まれている画像

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人, テーブル, 屋内, 座る が含まれている画像

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建物, 立つ, 女性, 持つ が含まれている画像

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第八回 鈴木サミットが開催されました。

●令和6年11月16日・17日 

●和歌山県海南市海南保健福祉センター

鈴木サミット実行委員会(神出勝治委員長)が主催。藤白神社・鈴木屋敷が、昨年に復元されてから初めての開催。熊野古道の世界遺産登録20周年の記念事業として、行政の協力のもと開催されました。

サミット中は関連イベントとして、海南ノビノスでは「本の中の鈴木を探せ!」や、道の駅・海南サクアスでは、「マグロの解体ショー」と限定メニュー「スズキの共食い・佐藤を喰らえ」セットを提供、また、スズキの二輪や四輪で訪れた人には、「鈴木大躍進」ステッカーがプレゼントされるなど市内の様々な場所でイベントが開催され開かれました。

17日は海南保健福祉センターをメイン会場に、地元に伝わる藤白の獅子舞演舞、「関東藤白鈴木会」の活動報告行われ、声優「鈴木このみ」さん、お笑いコンビ「キャイ~ン」のウド鈴木さんと天野ひろゆきさん、アニソン歌手・鈴木このみさんからの応援メッセージが会場で上映されました。そして博報堂による「鈴木屋敷を話題化するための鈴木グッズの提案」パネルディスカッションがありました。

サミットには各地の「鈴木さん」ら約200人が参加し、盛況のうちに終了しました。

◆11月16日

〇藤白神社・鈴木屋敷

藤白神社
雑賀鉄砲衆実演
鈴木屋敷前庭

 

屋外, 草, 人, 男 が含まれている画像

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鈴木屋敷池泉庭園で
(鈴木久元会長・鈴木正三監査役)
屋内, ベッド, テーブル, 座る が含まれている画像

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屋敷内に久元会長の家系図が展示されていました

〇懇親会 (海南保健福祉センター)

西岡藤白神社宮司
平岡鈴木屋敷復元の会事務局長
鈴木久元会長挨拶
屋内, テーブル, 建物, 座る が含まれている画像

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神出会長と鏡割り

 

神出海南商工会議所会頭
鈴木サミット実行委員長
神出海南市市長

    

神出海南商工会議所会頭     神出海南市市長

(鈴木屋敷復元の会会長)

鈴木サミット実行委員長

◆11月17日

〇第八回鈴木サミット (海南保健福祉センター)

神出鈴木サミット実行委員長
神出海南市市長

雑賀鉄砲衆活動紹介
藤白の獅子舞演舞
関東藤白鈴木会活動報告1  会長
関東藤白鈴木会活動報告2   会長・事務局長

 

関東藤白鈴木会活動報告

ビデオメッセージ

キャイーン(ウド鈴木)
声優「鈴木このみ」さん
佐藤姓発祥の地「栃木県佐野市」 佐藤の会活動紹介 海ニャン㊧とさのまる共演
博報堂パネルディスカッション 『鈴木屋敷を話題化するための鈴木グッズの提案』
西岡藤白神社宮司挨拶

第8回関東藤白鈴木会総会が開催されました

第8回 関東藤白鈴木会総会・懇親会が開催されました。
日 時:令和6年10月26日(土) 場:成願寺小笹庵ホール

今回は翌月の鈴木サミットを控え、会員各位の負担を控えるため小規模で開催いたました。

当日は、実務報告を中心にいたしましたが、ご参加いただいた会員の方々から、来年度の活動について貴重なご提案を頂きました。

2024年5月26日 鈴木ゆかりの地の探索会

鈴木ゆかりの地の探索会

長泉寺「鈴木正三墓碑」 「武蔵陵墓地」「八王子城跡」

八王子市 長泉寺「鈴木正三墓碑」をはじめ、付近の「武蔵陵墓地」「八王子城跡」を探索いたしました。

当日は晴天に恵まれ、13名の参加者の元、密度の濃い集いが行われました。

 中央線高尾駅北口(京王線高尾駅に隣接) 

社寺を思わせる風格ある駅舎は、大正天皇が崩御された際に大喪列車の始発駅として突貫工事で作られた「新宿御苑仮停車場」の建物を後に移設したものです。

  1. 鈴木正三墓碑のある玉鳳山 長泉寺 (臨済宗南禅寺派)

多摩御陵造営に伴い移動された正三坐像が安置され、寺東側丘上には正三の墓地があります。

本堂
長泉寺ご住職と鈴木正三座像安置堂の前で

墓地の入口。階段の途中に解説板があり、階段下にある石には、以下の文字が刻まれている。

(す)ゝきせうさん ひやう所 

「鈴木正三 廟所」の意

※( )内は欠損による欠字を補ったもの 

右が鈴木正三(石平道人)墓 左が弟子恵中の墓 (八王子市の史跡文化財指定) 

 

合掌

2.武蔵陵墓地 

昭和2年(1927)に大正天皇の陵所として選定され、現在は約46万㎡の陵墓地内に多摩陵(大正天皇)、多摩東陵(大正皇后)、武蔵野陵(昭和天皇)・武蔵野東陵(昭和皇后) が造立されています。

御陵総門の手前右側の小高い丘(庵の山)に、かつて鈴木正三の堅叔庵と墓がありました。

御陵正門の前を過ぎて突き当たりを右に曲がリフェンス角の内側に坂道の名残があります。これが「庵の山」入り口で、登ると鈴木正三(石平道人)と弟子の恵中が修行生活を過ごした堅叔庵がありました。全員で堅叔庵跡に向かって遙拝いたしました。

昭和天皇武蔵野稜 (むさしののみさらぎ)  平成2年(1990年)造立

3. 八王子城跡

 武蔵陵墓地から約4キロ強にあり、大手門付近の石垣・曳橋・御主殿跡など見学しました。

八王子城は関東の大勢力北条家の一門、氏照が築いたもので、本拠小田原城に次ぐ重要な城でした。

秀吉の小田原攻めの際、前田利家・上杉景勝らの軍勢に攻められ圧倒的不利な状況で抵抗を続け、秀吉の「時には皆殺しも必要」という方針から悲劇的な落城を迎えるのです。悲しい最期を迎えた姫君ら女子の伝説も伝わっています。

城跡に櫓や天守閣などは見られませんが、年代的には北条氏が築いた最後の城郭となり、東京都内の城郭跡としては最古の石垣が現存します。今回は居館(御守殿)跡を訪ねました。

曳橋を渡り御主殿跡へ

御主殿門

ガイドの方に丁寧な解説をいただきました。

建物群の礎石。一番大きい建物が政務を行う主殿、もう1つが来客を饗応する会所。

御主殿の滝

八王子城落城の際、御主殿にいた子女、将兵たちが自刃し身を投じました。

鈴木正三人物伝承

鈴木正三は天正7年(1579)三河に生まれました。正三は徳川家康の家来で、関ケ原の合戦、大坂冬、夏の陣の合戦で軍功を立てましたが、秀忠の時代、42歳で出家をしてしまいました。当時旗本の出家は禁じられていましたが、将軍秀忠の温情で、隠居扱いとなり家は残りました。

曹洞宗の禅僧として各地で修行を重ね、元和9年(1623)ごろ三河に戻り、石平山恩真寺を創建します。この時から石平道人(せきへいどうにん)と呼ばれるようになりました。一宗一派に属さず「南無大強精進勇猛仏」の信仰を唱え、仁王禅を提唱しました。

天草島原の乱の後、石高半減を幕府に嘆願して、切腹して果てました。天草の人々はその遺徳を偲び、その霊は神社に祀られています。代官として赴任した弟の重成たちを助け、荒廃した人心の復興のため出向いています。乱で荒廃した天草に3年間滞在し、寺や神社の復興に尽力しました。

重成は幕府に農民の一揆の原因となった高い租税半減を幕府に嘆願して、切腹して果てました。正三の子で重成の養子となった2代目代官の重辰(しげとき)も同じ訴えを続け、ついに重成公の七回忌に松平信綱と阿部忠秋の連名で石高半減の通知が下されました。天草の東向寺領の一角には重成公の遺髪が埋められ、遺髪塚が築かれました。根本となった遺髪塚(本渡市本町)には重成公祀る鈴木神社が建立され、後に兄正三公、養子重辰公も祀られました。天草を救った代官として鈴木神社(天草市本町)をはじめ天草の三十余カ所に「鈴木さま」としてまつられています。

各地を行脚し八王子に来られたのは亡くなる少し前70歳前後だったようですが、八王子長房村中郷(現在の武蔵野御陵の地)に堅淑庵という小さな寺を開山して、弟子の恵中と活動をしていました。

なぜ、八王子で伝道活動をしたのか定かではありませんが、八王子落城と言う悲惨な経験を通して、それでも懸命に、復興に力を尽くした八王子の人々と天草の復興が重なっていたのかもしれません。

正三が活躍した江戸初期は、江戸幕府を確立するうえで変革の時代でした。当時の八王子は、大久保長安の新しい町づくりが終わり、幕府の力が強化され、代官制度も変わり、千人同心の活動も活発化している時代でした。

平和な世の中が出来つつあった時代に、生と死を身近に見てきた戦国武士の正三は、戦いのない時代に、人がどう生きたら真の平和な世の中になるのか正三自身がたどり着いた境地を人々に伝道たかったのでしょう。武士道精神に基づく独自の禅を起こす一方、世俗生活と信仰生活との一体を教えました。

正三は明歴元年(1655)6月77歳の時、江戸神田駿河台の屋敷で亡くなりました。禅宗の僧侶として執筆と布教活動に務めた一生でした。火葬されたその骨は白雪の如く輝き、八王子にも分骨されたと伝わっています

現在の墓所は、昭和2年多摩御陵造営にともない、「庵の山」(御陵総門の手前右側の小高い丘)からこの地に改葬されたものです。

現在長房町の長泉寺境内に正三と弟子の恵中の墓所があり、八王子市の史跡文化財に指定されています。鈴木正三ではなく、石平道人として記載されています。

【5月26日開催】関東藤白鈴木会“鈴木ゆかりの地の探索”のご案内

関東藤白鈴木会 会長 鈴木 久元 

会員の皆様、この度鈴木ゆかりの地として「鈴木正三墓碑」の探索会を企画しました。八王子市 長泉寺に葬られております小さな墓碑でありますので、付近の多摩御陵などを含めての探索場所としました。 

下記の通ご案内いたします。何方様も万障お繰り合わせ下さいまして、ご参加下さいます様 お待ちしております。 

記 

○日時: 令和6年5月26日(日)午前10時頃~16時頃まで。少雨決行。 

雨天順延の場合は、6月2日(日)、同時間にて。 

○雨集合場所: 中央線高尾駅(京王線高尾駅に隣接) 北口改札口のバス停付近。

10時10分集合  交通費各自負担、昼食弁当、飲み物は各自ご持参ください。

○参加費:1,000円(お寺様へ等) 

~~~ 探索場所 ~~~ 

  1. 鈴木正三墓碑のある長泉寺(臨済宗南禅寺派) :八王子市長房町1256

・境内の一  画の小高い場所に鈴木正三の墓・碑文・弟子の墓があります。元々は隣接の多摩御陵にありましたが、移転しました。 

・堂内の鈴木正三座像の拝観: お寺の法事がなければ拝観可能、ご住職のご都合にて決定。

2.武蔵陵墓地 

・多摩陵(大正天皇)・多摩東陵(大正皇后)、武蔵野陵(昭和天皇)・武蔵野東陵(昭和皇后) がお眠りになっております。

 (余談: 昭和の時代は「多摩御陵」と呼んでいました。現在の宮内庁の名称は「武蔵陵墓 地」(「武蔵野陵墓地」ではありません)、但し事務所名は「多摩陵監区事務所」、国土交 通省の交叉点の信号名は「多摩御陵前」、道路名は「多摩御陵線」です) 

・長泉寺から徒歩6~7分です。途中に正三ゆかりの「日光神社」 (小さな社)あり。 

3. 八王子城跡

 ・武蔵陵墓地から約4キロ強にあり。大手門付近の石垣・曳橋・御主殿跡など見学。

○参加ご希望の方の連絡先

 ・関東藤白鈴木会: 03-3308-8003、または、 

地元企画担当、日野の鈴木邦夫:携帯へ

4月30日までに、雨天順延時の6月2日(日)も含めて、ご連絡願います。

 ○その他

 ・6月2日(日)の順延時は、ご住職様のご予定にて、堂内の拝観は残念ながら叶いません。

 ・詳細の工程等につきましては、別紙にてご案内いたします。

以上

2024年3月30日 王子神社参拝と飛鳥山公園花見散策

王子神社

元亨二年(1322年)、当時の領主豊島氏が紀州の熊野権現を勧請し若一王子宮と奉斎して熊野にならって景観を整えたといわれています。以来、王子の地名が生まれる。

後に徳川家康公は社領200石を寄進し将軍家祈願所と定め、歴代の将軍の表敬厚く、八代吉宗公には元文二年飛鳥山を寄進し、王子権現の名と飛鳥山の花見は江戸名所として知られる。

ちなみに王子付近に流れる石神井川が音無川という愛称で呼ばれる様になったのは、徳川は熊野・紀州出身であるので、熊野信仰の神様を祀る王子の地に流れる川であることから、地元にある川と同じ音無川と呼んだのだそうです。

飛鳥山公園は、東京都内の桜の名所の一つ。江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。明治6年には日本最初の公園の一つに指定された。旧渋沢栄一飛鳥山邸が位置している。」

近代日本経済の基礎を作った渋沢栄一は、設立に尽力した王子製紙(の工場を眼下に見守ることができる飛鳥山に、邸を構えました。明治12年からは内外の賓客を招く公の場として、その後明治34年から亡くなる昭和6年までは家族と過ごす日常の生活の場としても使用し、「曖依村荘(あいいそんそう)」とも呼ばれ、栄一もこの地をこよなく愛しました。

園内の旧渋沢庭園には、国の重要文化財に指定された大正期の2つの建物「晩香廬(ばんこうろ)」と「青淵文庫(せいえんぶんこ)」が、国の重要文化財指定で当時のままの姿で残っています。当日は、王子神社参拝後、飛鳥山公園で、開花し始めた桜を見物しました